熊野信仰と参詣道について

歴史学博士 小山 譽城(こやま よしき)
熊野信仰について

熊野信仰の対象である熊野三山は、熊野本宮(ほんぐう)大社熊野速玉(はやたま)大社
那智の熊野那智(なち)大社の三社です。 この三社のある熊野の地は、都から遠く、古代から神秘な霊地と考えられて
いました。

平安時代になると、山岳仏教が発達し、修験道は金峰山・大峰山を越えて熊野に入り、熊野は修験の道場となって
いきました。また、神仏習合の風が盛んになり、浄土教の広がりとともに那智の浜は補陀落(ふだらく)浄土への
渡海地となりました。さらに、熊野信仰のもっとも古い形態とも言うべき那智の滝への信仰と観音信仰が結びつき、
那智山が観音霊場ともなり、熊野への参詣者が次第に多くなっていきました。このような参詣者を先導したのが修験者で、
「先達」(せんだつ)と尊称されました。

本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想によって、熊野の仏教化はいっそう進み、熊野の祭神の本地仏が定められて
いきました。それによれば、熊野本宮大社の祭神である家都御子(けつみこ)大神が阿弥陀如来に、熊野速玉大社の
祭神速玉大神が薬師如来に、熊野那智大社の祭神夫須美(ふすみ)大神が千手観音とされています。これによって本宮が
西方極楽浄土に、新宮が東方瑠璃光浄土に、那智が補陀落浄土に見なされ、人びとの信仰がますます深まっていきました。

こうして熊野信仰は、院政時代に隆盛をきわめ、上皇をはじめ女院や公卿らの参詣があいつぎ、鎌倉時代になると武家から
一般庶民に至るまで、現世安穏と後世極楽を願って多くの人々が参詣するようになりました。このような様をたとえて
「蟻の熊野詣」といわれるほど盛んになりました。
熊野参詣について

京都から熊野への道は、京都から乗船し、淀川を下って摂津の窪津に上陸し、天王寺・住吉を経て和泉国を南下し、
雄ノ山峠を越えて紀伊国に入るものでした。紀伊国では雄ノ山峠から一路南下し、紀ノ川を渡って藤白峠や鹿ヶ瀬峠を
越えて日高平野に入り、さらに切目の五体王子社を経て田辺に至ります。田辺からは海岸線に沿って歩く
「大辺路」(おおへち)と内陸部を歩く「中辺路」(なかへち)に分かれましたが、上皇や女院の参詣道は中辺路の
コースを通っています。

熊野路には熊野の遥拝所である王子社があり、その数の多さから九十九王子(くじゅうくおうじ)と呼ばれました。
熊野参詣の人々は、長旅の途中、王子社で奉幣して熊野権現を遥拝し、そこで休憩しながら熊野を目指して山道を
歩いて行きました。熊野へは険しい道が多く苦労しましたが、このような難路を歩く苦行こそが功徳を積むことになると
考えられていました。

宇多上皇は、延喜7年(907)に熊野御幸を初めて行いましたが、その後、花山上皇が寛和2年(986)から
翌永延元年に参詣しています。院政時代になると、白河上皇が寛治4年(1090)に第1回の参詣を行っています。
上皇・女院・貴族の間で熊野詣が流行するのは、白河上皇が永久4年(1116)に行った第2回の参詣以降からです。
その後、上皇らは参詣の回数を重ねるようになりますが、それは修行の度数の多さによって功徳を積むと考えられて
いたからです。そのため、熊野信仰と熊野参詣の難行苦行の功徳を求めて、上皇の熊野御幸は隆盛をきわめました。
ちなみに、白河上皇は12回、鳥羽上皇は23回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は29回も熊野に参詣しています。